はじめに
丹波篠山は、兵庫県の中東部に位置し、古来西国から京都への交通の要衝として栄え、祭りなどに京文化の影響を色濃く残しています。市内には前方後円墳が複数あり、古代より豊かな地域であったとことがうかがえます。中世、波多野清秀が応仁の乱で戦功をあげ、永正年間(1504~1521)に多紀郡郡代となって、16世紀前半には、高城山頂に八上城を築き、その麓に城下町が形成されました。天正3(1575)年、織田信長の命で明智光秀の丹波攻めが開始され、天正7年(1579年)に落城、波多野氏は滅亡しました。その後、慶長7年(1602)年、前田茂勝(五奉行の前田玄以の子)が八上五万石で入城しましたが、慶長13年(1608年)に改易され、そのあと入封した松平康重は篠山城を築城したため八上城は廃城となり、城下町も篠山城下に移されました。同城は大坂城にあった豊臣秀頼をはじめ、豊臣恩顧の西国諸大名の抑えの要とすることを目的として、交通の要衝である篠山盆地の丘陵地「笹山」に築かれ、藤堂高虎が縄張を担当しました。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名による天下普請により1609(慶長14)年、わずか6か月という短期間で完成しました。以後、松井松平家一代、藤井松平家二代、形原松平家五代と続き、1749(寛延2)年、青山忠朝が丹波亀山藩から移封された後、青山氏が藩主となり明治を迎えました。城の四方に城下町が形成され、三の丸に上級武士、外堀沿いに中級・下級武士、外堀南に足軽長屋が配されましたが、明治時代にその多くが破却・売却されました。一方、城の南東の西京街道沿いには町人町や社寺がつくられ、今も城下町の佇まいが残っています。明治以降も農産物が近隣地域から集積され都市部へ輸送する拠点として栄えてきました。


昭和40年代から、高齢化や空き家の増加、伝統的な建物の取り壊し等、将来への危機感から、町並みの保存の取り組みは、早くからはじまりましたが、なかなか実を結びませんでした。平成5(1993)年に兵庫県の「景観の形成等に関する条例」に基づく景観形成地区の指定を受けたことを契機に、継続的な景観保全と環境整備が進みました。又、地域の人々のまちづくりへの意識が徐々に高まったことで、町並み保存に対する合意形成も前進、平成16(2004)年、城跡及び城の東西約1500メートル、南北約600メートル、約40.2ヘクタールのエリアが伝統的建造物群保存地区に指定されました。今回紹介する「河原町妻入商家群」はその伝建地区のうち、西京街道沿いの河原町、小川町を中心とした商家を中心とした地区の名称で、美しい古い町並みがのこり、その風情が楽しめます。
丹波篠山「河原町妻入商家群」の民家のかたち






東西の通りに沿って、江戸時代末期から昭和戦前期の町家や土蔵が建ち並びます。間口が平均3間(約5.4m)、奥行 20(36m)~60間(109m)という、うなぎの寝床のような昔ながらの敷地割が特徴です。旧藩政時代に家にかけられた税金が影響しているのでしょう。「妻入商家群」の名のとおり建物の大部分は妻入で、中二階建 、桟瓦葺が一般的です。外壁は大壁造の灰中塗仕上げ又は白漆喰仕上げの重厚な造りで、窓は中二階のものは出格子か虫籠窓が多いようです。表構えは、かつて、大戸・格子戸 蔀戸(跳ね上げ戸)でしたが、現代生活にあわせて改修されています。


「ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ」の掛け声とともにやぐらの周りでデカンショ踊りが行われます。建築の話とは関係ないですが、全国的にも有名な丹波篠山の夏を彩る盆踊り「デカンショ祭」で謡われる「デカンショ節」の歌詞は地域や時代ごとに様々です。その起源は篠山で古くからうたわれていた「みつ節」が変形したものであると伝えられています。大正時代には、「デッコンショ」節などとも呼ばれていましたが、次第に「デカンショ」節になったようです。デカンショ節は旧制高校などの学生歌としても全国に普及しました。篠山から東京へ学んだ学生たちは、毎年、夏に千葉の浜辺で過ごしていましたが、1898年(明治31)年の夏、宿泊先の宿の2階で若者達が郷土の盆踊り歌を「デコンショ、デコンショ」とうたっていたところ、それをたまたま階下に宿泊していた旧制一高の水泳部員の塩谷温達がこの歌を耳に止め、デカルト、カント、ショーペンハウエルを文字って「デカンショ節」と名付けて歌ったといいます。そこで、一高水泳部員達は、篠山出身の若者たちに付添っていた亘理章三郎(後の東京高等師範学校教授)などから歌の指導をうけ、それを、東京に戻ってからも歌ったものがひろまったといわれています。当時、篠山での盆踊り歌は、みつ節が衰退し、播州音頭などが中心になっていましたが、学生歌として歌われていたデカンショ節が逆輸入され、広まったといわれています。







小田垣商店本店 豆屋

小田垣商店は、1734(享保19)年、小田垣六左衛門が鋳物師として金物商を創業しました。その後、1868(明治元)年、6代目店主となった小田垣はとが、金物商から種苗商に転業。黒大豆の種を農家に配り、栽培法を教えて、収穫された黒豆を生産者から直接仕入れ、俵に詰めて販売を始め、当地の豆を一手に扱う豆問屋として栄えます。ところが、戦後、米の増産体制が続いて、黒大豆の栽培面積は半減。あぜ道に植えられる「畦豆(あぜまめ)」となってしまいます。しかし、1970(昭和45)年に始まった減反政策により、再び、丹波黒の栽培は急増し、作付面積は、畔豆時代の20倍以上となりました。現在も店頭には選りすぐりの丹波黒が店頭に並びます。



小田垣商店内には、カフェ「ODAGAKI mamedou 小田垣豆堂」があります。黒豆茶とあたらしい黒豆料理、黒豆、栗、大納言小豆を使ったスイーツなど、あたらしい黒豆との出逢いが楽しめます。そして、カフェから眺めるお庭は、写真家、現代美術作家、建築家、演出家としてオールマイティの才能を発揮する杉本 博司(すぎもと ひろし)が作庭しました。
さいごに

丹波篠山は、兵庫県の内陸部にありますが、高速道路が整備され、JR福知山(宝塚)線もあって交通の便が良く、京阪神から比較的短時間で行くことができます。近年は、ぼたん(猪)鍋や黒枝豆(最近はブランド化で高価になりました)を求めて、京阪神から多くの観光客が訪れています。又、大阪への通勤圏にもかかわらず、ほどよい田舎暮らしができることから、都市部から移住する人も多いいようです。
個人的にはゼネコン入社後2年目、金属部品加工工場新築現場の事務として週に1回、約1年間かよった思い出の地です。当時は町家より茅葺民家に夢中で、週末、当地に数多く残っていた茅葺民家を撮影しましたが、現在「河原町妻入商家群」となっているエリアの河原町、小川町の商家町は素通りしてしまっていました(汗)。その後、長いこと行く機会はありませんでしたが、ご多聞にもれず、ぼたん(猪)鍋や黒枝豆を味わうため再訪したところ、なんとも味わいのあるいい街です。近年は古民家を利用した魅力的なレストランやcaféが増え、何度訪れても飽きません。
(参考文献)
ウイキペディア
丹波篠山市ホームページ
小田垣商店ホームページ(小田垣商店 公式サイト | 享保十九年(1734年)創業の老舗黒豆卸店)



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