津軽黒石 江戸時代からのアーケードが残る「中町こみせ通り」を歩く

西谷家住宅(こみせ美術館)
西谷家は呉服商で、造り酒屋の建物を1913(大正2)年に弘前から移築しました。

はじめに

黒石が歴史に登場するのは鎌倉時代です。

地名の由来は、蝦夷の住む土地を久慈須(クジシ)、国栖(クニス)と称したことから、国栖が『くるし』、さらに、『くろいし』に変わったとされています(諸説あり)。以来、安土桃山時代まで、甲斐源氏の流れをくみ、幕末まで続く南部氏の所領でした。

ところが、もともと南部氏の家臣であった津軽(大浦)為信が南部氏から独立する動きをみせ、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して大名として認められたのち、1597(慶長2)年には津軽地方にあった南部氏の領地に侵攻して、黒石は津軽氏の支配下におかれることとなりました。津軽氏は関ヶ原の戦いでも東軍に与し、勝ち馬に乗って弘前藩の基盤を築きました。

1656(明歴2)年、まだ幼かった第4代弘前藩主津軽信政の後見人に為信の孫の津軽信英が命ぜられました。同年、信英は弘前藩から5千石を分知され、黒石領初代領主(交代寄合旗本)となりました。信英は分知以前からあった町並みを基に新しい町割りを行い、これが現在の黒石の街の基礎となっています。

1805(文化6)年には1万石に加増され大名の列に加わり、この時から黒石を藩と呼ぶようになります。当時の弘前藩主は第9代の津軽寧親で、寧親はもともと黒石領の6代目領主であり、長男に黒石領を継がせたという事情があったようです。

明治以降、一時黒石県が設置されましたが、弘前県に吸収されその後、青森県となりました。江戸時代、黒石藩は小藩ながら商業政策に力を入れるとともに、弘前から青森方面に通じる「浜街道」の街道筋に位置し、明治初期まで北海道へ向かう主要ルートでもあったことから、街は大いに繁栄し、特に中町は黒石の街の中核として造り酒屋、呉服屋、米屋などの大店が軒を連ねました。

高度経済成長以降、街の活気は徐々に失われ、伝統的な商家が次第に解体され始めたことから、こみせ通りの保存を希望する声があがるようになりました。そのような中、1989(平成元)年、中町の銭湯が土地を業者に売却せざるを得なくなったため、市民が協力してその土地と建物を取得、保存の機運は一層高まっていきました。

2005(平成17)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、1987(昭和62)年には、旧建設省の「日本の道100選」に選ばれました。現在は昔ながらの街並みに修景され「中町こみせ通り」として観光客などでにぎわう通りとなっています。

中村亀吉酒造「玉垂」

1913(大正2)年創業の造り酒屋です。NHK大河ドラマ「いのち」の舞台ともなりました。子供の頃観ていました(笑)。店先の巨大な杉玉は、お店曰く大きさが日本一だそうです。


「こみせ」は、町屋と商家の軒の外側に、冬の吹雪や夏の日照りから歩行者を守るように軒のようにつくられた屋根で、藩政時代に考えられた木造のアーケードです。江戸時代は公共の場でしたが、明治の地租改正時、敷地は私有地となりました。屋根は建屋とは別になって両隣と連続していますが、それぞれの所有者によって管理されています。「こみせ」と同じものが、新潟県などでは「雁木」と呼ばれており、地方によって呼び名が異なります。

盛家住宅
高橋家住宅

高橋家は黒石藩の御用商人です。米屋を営むかたわら味噌、醤油、塩の製造販売もしていました。建物は1763(宝暦13)年頃の建築と言われ、中町こみせ通りでは最古となり、国の重要文化財です。


1763(宝暦13)年の古文書によると、既にその頃には、「こみせ」を持つ商家が立ち並んでいたようです。明治から大正時代にかけての最盛期には前町から中町、浜町のはずれまで続き、総延長4.8キロメートルにも及んでいましたが、度重なる火災や車社会の発達などにより、大半が消失してしまいました。現在一つの町内にまとまって存在するのは中町(中町こみせ通り)だけとなっています。

鳴海醸造店「菊乃井」こみせ
こみせ 屋根を支える柱と装飾性が高い方杖

「こみせ」は木造で、幅員は約1.6メートル、軒高は約2.3メートル、屋根勾配は概ね2寸勾配、天井は垂木が見える構造になっています。道路に並行して流れる側溝に雨だれや雪を落とすため、軒先が道路に出ています。数十年前までは積雪が多い冬場に、通りに面した柱と柱の間に摺り上げ戸をはめ込んで、雪が「こみせ」の中に入らないようして、通路を確保していました。明かりが灯った夜の雰囲気は格別です。

鳴海醸造店「菊乃井」
西谷家住宅(こみせ美術館)

建物の中は表から奥にのびる「通り土間」に沿って部屋が並びます。いわゆるウナギの寝床です。しかし、鳴海醸造店は、表通りであるこみせ通り側の間口も広く、別格の大店であることがわかります。西谷家の奥に見える望楼は1924(大正13)年に建築された消防部屯所です。


建物は切妻造りが主体で、妻入りと平入りが混在しています。間口が大きい家は妻入り、小さい家は平入りが多くなっていますが、これは冬場の雪降ろしの都合によるものだそうです。外壁はしっくい仕上げ又は板張りになっています。真壁造りの妻面には小屋組みの端部が規則正しくピラミッド状に立ち上がり見どころとなっています。

松の湯交流館

軒先に巨大な松がある元銭湯です。その名も「松の湯」。1993(平成5)年に営業を終了し建物が取り壊されようとしていたところ、保存運動が展開され、市民が協力してその土地と建物を取得しました。現在は観光交流館として活用されています。

さいごに

1990年台初頭、大学生であった私は黒石を訪れたことがあります。当時の写真を見返すと、少々くたびれた建物と「こみせ」の様子が写っていました。今は、「中町こみせ通り」として整備され、往時の美しい姿を取り戻しています。全く期待していない中、再訪してみた街並みはすばらしく、感動的でさえありました。青森県を小説家 司馬遼太郎は「まほろばの国」(日本の古語ですばらしい国、住みやすい国)と評しました。雨に濡れた建物や道が、灯りに照らされ幻想的な光景が広がる「中町こみせ通り」こそが「まほろば」ではないかと私は思いました。そして、日本酒好きにはたまらない通りです。「菊乃井」「玉垂」でのどを鳴らしてください。ん-旨い(笑)。

参考文献

ウイキペディア
黒石市ホームページ
黒石観光協会ホームページ

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