「稲扱千刃」「倉吉絣」で栄えた倉吉「赤瓦白壁土蔵群」「倉吉淀屋」

赤瓦白壁土蔵群
桑田醤油醸造所

南北朝時代に伯耆国守護・山名氏が打吹山城を築き守護所を置きました。城下に商工業者を集め、市を開いたことが現在の倉吉の町の起こりです。山名氏の衰退後は豊臣(羽柴)秀吉に臣従した南条氏の支配下に入り、打吹城と城下町の整備が行われました。関ヶ原の戦いで西軍についた南条元忠が改易された後、中村一忠、南総里見八犬伝で有名な里見忠義(配流ともいわれる)、幕府直轄地、池田光政と城主は目まぐるしく変わりましたが、1632(寛永9)年、池田光仲が鳥取藩主になると、家老倉吉荒尾氏の封地となり、一国一城令で破却された打吹城にかえて陣屋が設けられました。

江戸時代中期以降商品経済の発達と日本海側では北前船による海運流通が活発となり、米子と並ぶ鳥取藩の経済の中心地であった倉吉も、その一翼を担うことになります。そして、倉吉に大きな繁栄をもたらしたのが「稲扱千刃(千歯)」と「倉吉絣」です。

稲扱千刃とは、収穫した稲穂から籾粒をしごいて脱穀するための道具です。出雲や伯耆では中国山地で産出される良質の鉄を使った「たたら製鉄」が盛んで、倉吉にも多くの鍛冶職人がいました。当時、彼らが鍛練した千刃は年間5万挺ともいわれ、全国の生産量の8割を占めたといいます。そして、深みのある藍色をした倉吉絣は商人を通じて大商圏である京・大坂をはじめ全国に販路をもち、高額で取引きされました。稲扱千刃と倉吉絣を同時に扱う商人が多く、紺の絣を着て近江商人のように天秤棒を担いで全国を巡り、倉吉に莫大な富と財をもたらしました。

土蔵が建ち並ぶ風景は、そんなかつての栄華を物語っています。

「倉吉」の地名の由来は諸説ありますが「暮らし良し」又は「蔵屋敷」が「くらやし」に変化して「くらよし」に転化したといわれています。

「赤瓦白壁土蔵群」のある打吹玉川地区は陣屋跡の北方に位置します。江戸時代初期から大正時代まで栄えた地区で、江戸時代末期から昭和前期までの伝統的建造物は本町通の町家群や玉川沿いの土蔵群をはじめ約100棟が現存します。1998(平成10)年に4.7haが重要伝統的建造物群保存地区として選定され、2010(平成22)年には既選定地区の西に位置する区域4.5haが追加選定されました。

桑田醤油醸造所

間口13間。倉吉の顔と言うべき大店で、1877(明治10)年創業の醤油醸造所です。左側に一段低く見える小ぶり建物が1901(明治34)年の建築です。現在、店舗として使用されている右側の建物は1915(大正4)年に連結される形で増築されました。たった15年差ですが、意匠的には劇的な変化を遂げています。1~2階までを貫くレンガ造和洋折衷様式のうだつが目を引きます。

旧第三銀行倉吉支店
元帥酒造

現在のみずほ銀行につながる旧第三銀行の倉吉支店跡です。1908(明治41)年竣工で銀行にふさわしい土蔵造りの重厚な擬洋風建築は現在、「白壁倶楽部」というレストラン&カフェになっています。

嘉永年間(1848~54 年)創業の老舗酒蔵です。当初の酒銘は「旭正宗」でしたが、1907(明治40)年、皇太子(後の大正天皇)山陰行啓に随行し、倉吉を訪れた東郷平八郎海軍大将にちなんで、1913(大正2)年酒銘を「元帥」に変更しました。

大正前期に建築された長屋群
オークランド(全景)
オークランド(千本格子)

明治22年建築の千本格子が美しい旧木内家住宅です。前述の桑田醤油醸造所と並ぶ大店です。同醸造所の総2階の建物と比べると、厨子2階のつくりで江戸期の建物の影響を色濃く残していることがわかります。瓦は赤褐色の石州瓦が使用されています(同様に赤褐色の鳥取県で製造された津ノ井瓦の可能性もあります)。中国地方の鳥取県、島根県、岡山県(北部)、広島県、山口県で石州瓦が主に使われてきました。又、棟押えに島根県安来産の来待石が使用され、今となっては大変珍しい例です。現在は、アンティークショップ「オークランドとなっています。

BREW LAB KURAYOSHI

昭和初期に建てられたこのモダンな木造の洋風建築はもともと病院だったそうです。2020(令和2)年、地ビール醸造所とビアバーを開業するにあたり、昭和23年の状態に復原されました。

旧日本産業貯蓄銀行倉吉支店
玉川沿いの土蔵群

このかわいい建物は1931(昭和6)年竣工の倉吉初のRC造の建物です。現在は、射的屋さんになっています。

玉川沿いの土蔵群(煙突は桑田醤油醸造所)
玉川沿いの土蔵群

通りに面して商いの場となる建物が建てられ、裏側にあたる玉川沿いには商品などを保管集積するための土蔵が建ち並びました。玉川は、日本海にそそぐ鳥取県中部の大河川天神川とつながり、商品は河口にあった北前船でにぎわう橋津港へ小船で運ばれていました。

長屋群
昔の装いに復元された商家
倉吉淀屋
倉吉淀屋全景

2階建てですが、江戸中期の町家であることから、大正以降の町家に比べると2階部分の階高は厨子2階で半分程度しかありません。「倉吉淀屋」の起源は、大坂御堂筋の土佐堀川に架かる淀屋橋に名を遺した江戸時代の豪商淀屋にあります。淀屋4代目当主 重當は番頭牧田仁右衛門に彼の出身地倉吉で暖簾分けして店を開かせました。その後、「倉吉淀屋」は稲扱千刃や倉吉絣を商い、莫大な富を築き倉吉を代表する商家となっていきます。現存する店の建物は倉吉最古で1760(宝暦10)年建築と伝わります。1705(宝永2)年、大名貸で莫大な資産を有し大きな影響力をもっていた淀屋5代目当主 広当が、幕府から「町人の分際で贅沢で華美な暮らしをしている」との理由により、全財産を没収される「闕所(けっしょ)処分」を受けました。時代は下り、倉吉淀屋4代目 牧田五郎右衛門の頃、もともと淀屋があった大阪の土地を買い戻し、1763年(宝暦13)年には、五郎右衛門の四男で「後期淀屋」初代にあたる淀屋清兵衛が店の再興を果たします。しかしその後、店の主が幕末の討幕運動に身を投じ、ほとんどの財産を朝廷に献上、1859(安政6)年に倉吉と大阪の店を畳んだとのことです。なかなか面白い話ですね。

書院
書院 床脇の違い棚
書院 ふすま

増築された付属屋には、二間続きの数寄屋風の広い書院が設けられています。

みせ 板戸
みせ 階段箪笥

建物は大規模な町屋で、1760(宝暦10)年建築の店空間である「みせ」、接客空間である「おもて」部分の主屋、1838(天保9)年増築された日常生活空間である「おく」から構成されています。店は2007(平成19)年から2年間、復原工事が行われました。

さいごに

倉吉は大阪からJR特急で約3時間です。「赤瓦白壁土蔵群」では、江戸中期から昭和初期にかけて町家の変遷していった様がたどれます。又、日本海の幸を楽しめる料理店や地ビール工場、アンティークショップ、竹細工工芸店など楽しめるお店が盛り沢山! 山陰の素朴な人柄が魅力的な地元の人との触れ合いも楽しみです。街歩きの後は、高濃度のラドンを含む世界屈指の放射能泉の三朝温泉で汗を流して疲れを癒せます。ちなみに、数十年の長期にわたる健康調査で三朝温泉周辺の住民は一般的な日本人比べ、癌の発病率が約半分だったそうで効能もあるようです。

参考文献

ウイキペディア
JR 西日本Blue Signal
倉吉淀屋ホームページ
白壁土蔵群赤瓦

コメント