全景
はじめに
島原は現在、京都五花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町)に入っていませんが、1977(昭和52)年までは京都六花街のひとつに数えられていました。京都の傾城町は室町時代、足利義満により現在の東洞院通七条で許可したものが最初で、日本の公娼地の始まりといわれています。その後、1589(天正17)年、柳馬場二条、1602(慶長7)年、六条三筋町へと移転しました。さらに寛永18(1641)年には、朱雀野(島原)付近への移転が命ぜられました。
官許花街である「島原」の地名の由来は、移転の騒動が数年前に九州で起きた島原の乱を思わせたことによるものです(諸説あり)。元禄期に最も栄えましたが、立地の悪さ、又、格式の高さが壁となって他の遊里に客を奪われ、次第に衰えていきました。廓の遊女達は自由に廓の外へ出ることができ(通行手形が必要)、一般人も(男女問わず)自由に出入りができたことから、「閉ざされた」花街ではありませんでした。ここが専ら歓楽のみの営業で閉鎖的な江戸の吉原との大きな違いです。
1851(嘉永4)年の大火で揚屋町以外の島原のほとんどが焼失し、被災した多くの店は祇園新地で仮営業しましたが、大半が島原に戻ることはなく、街はさらに衰退していきました。
島原の名を今も有名にしているは、なんといっても、幕末地理的に近い壬生に屯所を置いた新撰組の存在でしょう。この動乱期、島原は様々な事件の舞台にもなりました。
1873(明治6)年に「島原女紅場」が開設され、青柳踊や温習会が上演されていましたが、明治以降、東京遷都で公家、武家の常連客がいなくなり、花街は寂れていき、ついに1977(昭和52)年には、お茶屋組合も解散されました。
外観
建築概要 木造瓦葺
延床面積 528.92m²
竣工 1857(安政4)年、※改築1871(明治4)年
角屋(すみや)は、江戸期、京都・島原(京都市下京区)で営業していた揚屋です。
1589(天正17)年、柳馬場二条で初代徳右衛門が創業しました。1602(慶長7)年、官命により六条三筋町へ移転しました。さらに寛永18 年(1641 年)再移転を余儀なくされた角屋は、二代目徳右衛門によって現在の地、島原へ移りました。ハイエンドのお店としての遊宴だけを事とするにとどまらず、和歌や俳諧などの文芸の発信地ともなりました。
幕末には久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わし、豪商からの資金調達のための接待にも使用されていました。又、新選組も特に局長であった芹沢鴨との関わり合いは深く、1863(文久3)年6月、水口藩との宴席で泥酔状態の芹沢が店の対応に不満を抱き、暴挙をはたらきました。膳をはじめ、店内の食器や什器を壊し、挙げ句の果てに廊下の手摺りを外して、酒樽に叩きつけ帳場を酒浸しにしてしまったとのことです(汗)。その際に出来た刀傷が今でも残っています。
又、芹沢が近藤勇らに誅殺される夜にも、ここで酒宴が張られました。1872(明治5)年、お茶屋に編入され、1985(昭和60)年まで営業していました。1998(平成10)年、「角屋もてなしの文化美術館」が開館し、建物が一般に公開されています。1952(昭和27)年には、現存する唯一の揚屋遺構として、国の重要文化財に指定されました。
揚屋町通りに面した表棟は格子造で間口17間(31.5m)にも及びます。最も古い建物は角屋が六条三筋町から移転してきた1641(寛永18)年頃の建築とみられますが、後年、増改築が繰り返され、複雑な間取りとなっています。
内観
表棟1階の北西側に大座敷の「松の間」があります。この部分は1925(大正14)年の一部焼失後の一部再建で、重要文化財の指定対象外となっています。
大変豪華な障壁画「金地桐に鳳凰図」は京都幕末画壇で平安四名家のひとり、御所の障壁画でも筆をとった岸連山により描かれました。
庭内には名物の「臥龍松」という枝の長い松が生えていましたが枯死してしまい、現在の松は二代目になります。
京町家と同様に、中庭があることで薄暗い建物内に関節光を届けます。左側の廊下は松の間へと続き、訪れた客の気持ちを和ます役割ももっていたのでしょう。沓脱石として用いられている切り石の形が独特で面白い風情となっています。
大振りの網代天井が特徴で部屋の名前の由来にもなりました。2階には「緞子の間」、「翠簾の間」、「扇の間」、「青貝の間」など多くの部屋が並びます。天井や建具は経年の燈明の煤で黒ずみ時代を感じますが、各部屋ともその時代の最高の技術を用いた装飾や意匠で贅の限りが尽くされています。
尚、2階は特別公開時等のみ見学することができます(撮影不可)。
花街には、揚屋、茶屋と置屋があります。揚屋では宴席に出す料理を台所で作っていました。現代の「料亭」の元祖といえます。揚屋だった角屋には大規模な台所があります。「茶屋」では料理は作らず、外注し取り寄せます。「置屋」は太夫、芸妓を抱え、揚屋、茶屋に派遣します。置屋では客を取りませんでしたが、明治以降、お茶屋業も兼務する置屋では宴会業務も行うようになりました。
さいごに
島原は地下鉄五条駅より距離があり、JR嵯峨野線梅小路京都西駅からも少し歩きますので、なかなか行きづらい場所にあります(市バスが便利です)。五条通から歩くと閑静な住宅街の中に突如島原花街の大門が現れます。繁華街の中にある祇園の花街と違い、昔ながらの雰囲気を味わうことができます。茶屋建築の貴重な遺構、角屋は春と秋の期間限定で公開されています。時間があれば、ぜひどうぞ。
参考文献
ウイキペディア
角屋保存会ホームページ
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