はじめに
「熊川宿(くまがわじゅく)」は、福井県南部(嶺南)の若狭町熊川にある「若狭街道(通称;鯖街道)」で江戸時代の最盛期戸数200を数えた最大の宿場町です。若狭と近江を隔てる山から流れる北川に沿って発生した集落が、荷次場として発展していきました。「鯖街道」は、戦国時代から江戸時代にかけ特に多く運ばれた魚がサバであったことに因んで名づけられました。「京は遠ても十八里」といわれ、小浜から京都市上京区出町(京の都に出る町という意味)に至る約80kmの街道です。経路は複数あり、それらはすべて鯖街道と呼ばれていました。北前船による日本海(西廻り)航路「海の道」の発展によって交通の要衝であった小浜から、京都、大坂への物資も運ばれ、「陸の道」としての役割も果たしました。

最もよく利用されたのが比較的平坦な道であった熊川宿、朽木谷、大原、京都に至るこの若狭街道のルートです。サバなどの魚介類は人足が背負って運搬しましたが、輸送するのに丸1日を要しました。腐敗を避けるためにした塩が京都に着く頃にはちょうど良い塩梅になりました。熊川宿の南にある保坂で鯖街道”本道”から別れて、琵琶湖畔の近江今津へ行く道もあり、大津との間を琵琶湖の水運を利用して物資が行き交いました。いずれにしても、熊川宿を経由しましたので、宿場は大いに賑わいました。
熊川は鎌倉時代より代々この地の領主であった室町幕府奉公衆の沼田氏が永禄年間(1558~)に城を築き、その城下町として発展しました。永禄12年(1569)に若狭国守護家であった武田氏に攻められ沼田氏は近江国へ退きました。その後、武田家は衰退、天正元年(1573)、織田信長と若狭の支配を争った越前朝倉氏が滅亡し、若狭国は信長麾下の部将丹羽長秀の領地となりました。熊川城は天正12年(1584)頃、長秀によって破却されましたが、豊臣秀吉に重用され小浜城主となった浅野長政が天正17年(1589)、交通軍事の要衝であるこの地を、宿場町として整備し、諸役免除としました。この恩恵は幕末まで続きました。関ヶ原の戦の戦功により小浜藩主となった京極高次、その後、1634(寛永11)年には、老中などの要職を歴任した譜代大名の酒井忠勝が小浜に入封、江戸時代を通じて小浜藩領でした。
明治時代の廃藩置県後、小浜県、次いで敦賀県となり更に滋賀県となりましたが、明治14年(1881)に福井県に編入され現在に至っています。若狭街道随一の宿場町として繁栄してきましたが、明治時代以降は鉄道開通など輸送革命がおこり、旧街道は衰退し、1990(平成初年頃)年代の戸数はピークである江戸時代中期の約半分まで落ち込んでいました。そのため、古い町並みが残り、1996年に約10.8ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区として選定され、以降街並みの整備が現在まで続けられています。平成30年には規模の大きい町家がシェアオフィスにリノベーションされたことが契機となり、若者が徐々に流入、工房や宿泊施設、カフェ、 アンティークショップなどの店舗が相次いでオープン、多くの空き家が利活用されるようになり、街に活気が戻って来ました。京阪神など県外からの来訪者も増加しているようです。
熊川宿の街並み


約1.1㎞ある熊川宿は京都側から上ノ町(かみんちょう)、中ノ町(なかんちょう)、下ノ町(しもんちょう)で構成されていました。中ノ町には町奉行所、蔵奉行所、問屋や社寺があり、町の中心的役割を果たしました。下ノ町と上ノ町は、茶店、巡礼宿、馬借や背負人の店などがありました。街道沿いには、平入で2階部分が道路側に張り出し1階の軒が深く、うだつが建物両端に付いく出桁造の重厚な塗籠造の町家が多く残ります。このような冬場の積雪や防火に適した越前など東国の建築様式の影響が伺われる一方、京町家と同様の形式の建物も多く見かけます。多くは平入ですが妻入の建物も混じっています。街道に沿って前川と呼ばれる水路が流れ、家ごとに水路を跨ぐ橋と「かわと」といわれる洗い場が設けられています。








1940(昭和15)年に伊藤忠商事2代目社長であった伊藤武之助から寄付を受け、1940(昭和15)年に熊川村役場として建設された木造2階建てのかわいらしい洋風の建物です。現在は鯖街道と熊川宿に関する資料を展示する資料館になっています。


旧逸見勘兵衛家住宅は中ノ町に位置し、1858(安政5)年に建築されました。重厚な塗籠造の町家は家の主が分限者であることを物語っています。熊川村の初代村長逸見勘兵衛、又、その子息で伊藤忠商事二代目社長となった伊藤竹之助(旧姓:逸見竹之助)の生家でもあります。長期間無住となり大きく損傷していましたが、平成7年に町有形文化財に指定され、3年をかけて、保存改修修理が行われました。現在は宿泊施設やcaféとして利用されています。


シェアオフィス&スペース菱屋(旧問屋菱屋(勢馬清兵衛家))

旧問屋菱屋は、中ノ町にあります。主の勢馬家は小浜藩の御用商人であるとともに藩の役人も務めました。1868(明治元)年に建築された木造2階建の平入の京町家は熊川宿を代表する建物で、間口は28間もあります。むくりがついた大屋根は見事で、柱や格子戸などの木部の外装に塗られた紅殻と壁の白漆喰のコントラストが鮮やかです。江戸時代の最盛期には年間20万駄の荷継ぎ場として、問屋場には多くの馬借や背負人が出入りしました。2018(平成30)年に、オフィス、カフェ、宿泊施設のラウンジ、食の体験スペース、シェアスペースで構成する複合施設「街道シェアオフィス & スペース菱屋」として生まれかわりました。








さいごに
熊川宿は、大学時代、ツーリングで何度も通ったなじみの場所です。久しぶりにみた街並みは電柱がなくなってすっきりし、建物も美しく改修整備され、その変わりようにびっくりしてしまいました。なるほど鯖街道随一の宿場町です! 昔ながらの鯖鮨を売るお店に加えて、古い町家や蔵を利用した宿泊施設やシェアオフィス、カフェなどが何軒も新しくできていました。訪れたのは冬の日でしたが、集落には人通りもあり活気づいていました。なんともうれしい話です。江戸時代、徒歩で1日かかった道のりは、京都からは車で約1時間半(湖西道路経由)、JR湖西線とJRバス若江線利用でも約2時間です。大原から途中越えをして朽木谷をたどる鯖街道≒国道367号線で、往時を偲びながらゆっくりとトライブして訪れるのがいいかもしれませんね。もちろん昼ご飯は鯖鮨!(笑)
(参考文献)
ウイキペディア
若狭町ホームページ
菱屋 街道シェアオフィス & スペースホームページ
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