はじめに

野田村は、1889(明治22)年、野田村と玉川村(現在の玉川地区)が合併してできた村です。岩手県北東部にあり、北上山地の東麓、三陸復興国立公園内に位置し、太平洋(三陸海岸;野田湾)に面しています。高低差がある山がちの地形ですが、村北東部や中部では台地状になり起伏が少なくところもあり農地が拓かれました。北は久慈市、南は普代村、西を岩泉町と隣接し、江戸時代は南部藩領で、南部藩の支藩であった八戸藩との境界の村でもありました。海の恵みも山の恵みもある自然豊かな村で、世界三大漁場ともいわれる三陸海岸;野田湾のホタテ、ブランド豚の「南部福来豚」、冷涼な気候を生かした山ぶどうなどさまざまな味覚を堪能できます。
気候は冬季、晴れて乾燥する日が多く、降雪量も少なめです。夏季は寒流である親潮の影響によるヤマセ(偏東風)が発生し、冷涼湿潤です。このように、気候が作物の生育に向いていない三閉伊通(三陸沿岸地域で九戸郡および閉伊郡は、野田通・宮古通・大槌通の3つの「通」)では人々は貧しく、江戸時代後期、連年の飢饉と南部藩の重税に耐えかねた百姓たちが1847(弘化4)年および1853(嘉永6)年に、三閉伊一揆(さんへいいっき)と呼ばれる一揆をおこし野田村の農民もこれに参加したという悲しい歴史があります。
南部藩では塩の製造量が少なく、容易に製塩できた野田村では、江戸時代から製塩業が盛んとなり、つくられた塩は牛の背に載せられ遠く藩都盛岡はじめ、雫石や花巻、北上、遠くは秋田県の鹿角まで運ばれました。運搬に使われた道は「野田塩ベコの道」としてその一部が今も村内に残っています。経由地にもよりますが、盛岡まで約1週間かかったといわれています。現在は品種改良で稲作可能地域となっていますが、かつては、寒冷な環境である野田は稲作には向きませんでした。そのため、外部から米などの穀物を得る必要があったことも製塩業が盛んになった理由として挙げられます。しかし、1949(昭和24)年に日本専売公社が発足、塩の生産や販売が制限されると、一気に衰退しました
野田村の茅葺民家のかたち

人様の住む場所(奥)より厩の方(手前)が大きい南部曲家

この民家は直家タイプで厩は左側にあります。家の前には囲炉裏用の大量の薪がつんでありましたが、これで1か月もたないとのこと。鳥の声のみが聞える静かな山村には昔ながらの営みが残っていました。



L字形の曲屋自体は全国各地に分布し、代表的な例としては秋田県や新潟県の中門造、関東にも存在し、西日本では鍵屋と呼ばれているところもあります。ただ、世間一般的に、曲家といえば「南部曲家」を指す場合が多いと思われます。岩手県に隣接する日本海側の曲家の「中門造」では、建屋のL字形突出部に「中門口」と呼ばれる入口があります。しかし、南部曲家ではその突出部に入口はありません。
南部曲家の突出部には厩が設けられていますが、右厩タイプと左厩タイプがあり、野田村では右厩タイプが多いように感じました。一般的に右側=東側で日が昇る方向にあたり、このことが関係しているかもしれません。建屋内部は馬や牛の家畜飼育空間、作業・収納空間、居住空間から構成されます。台所が突出部の厩に隣接し、台所のカマドの暖気を家畜がいる厩に伝え、空間を保温する合理的な仕組みになっています。
南部曲家は、旧南部藩領域、岩手県のほぼ全域に存在しています。これまでの研究により、その成立は18世紀中期ないし前半まで遡ることができるといわれています。乗馬用や農耕馬を多頭飼育するため発展したと考えられますが、肝煎(庄屋・名主階級)など上層農家に曲家が多いことから、曲家と直家の建築採否には、ある程度家格の差があったと考えられます。
高度経済成長期以降、農業の機械化で農耕馬(牛)は必要なくなり、生活様式の激変に伴い時代に合わなくなった南部曲家は急速に姿を消しました。現在ある建物も多くは改造され、住居として原形を保つものはほとんどなく、資料館等でごくわずかに見ることができるのみとなっています。
南部馬








江戸時代、南部藩域で飼育されていた馬は、小柄な日本在来馬が多いなかで、比較的に体格が大きい南部馬(なんぶうま)でした。しかし、明治期以降、国策により南部馬は軍馬として改良されサラブレッドやアラブ種などと交配されたことから、純血種は絶滅してしまいました。一方、農耕用馬としては、フランス原産の「ブルトン種」や「ペルシュロン」といわれる体重が1t程もある「重種」という種類の馬が、明治期以降導入されました。これらの馬は耕作や運搬用として活躍してきましたが、現在ではもちろんこの用途に使われることはなく、主として馬肉生産用として飼育されています。写真の馬は「重種」です。
奈良時代の初め頃には既に南部地方は朝廷から馬産地として認知されていました。その後、鎌倉時代になり源頼朝が馬産に精通していた御家人の南部光行を甲斐から入部させました。この光行を始祖とする南部氏が幕末まで南部地方を統治することとなります。光行らは甲斐から連れてきた馬と交配させて馬匹改良を行い、牧野整備を進めて大型の南部馬を作り上げたといわれています。江戸時代、盛岡藩領内の9カ所に南部九牧と呼ばれる藩営牧場を設置し、数頭の種牡馬と多数の繁殖牝馬が繋養されていました。
アジア民族造形館

日本初のアジア民族文化施設として1985年(昭和61年)に開館しました。
展示棟は南部曲り家で昔懐かしいアジア各国の民族衣装や陶器類、玩具、楽器などの資料が展示 されています


なかなかお目にかからない屋根の葺替に出会いました。棟に土を敷き詰め、芝を張ります。昔と違うのは、棟に漏水防止のためのシートを使用するところです。ビニールシートが無い昔は木の皮を使用していたのでしょうか?

さいごに

インターネットがまた普及していなかった1990年代半ば(平成5~7年)頃、茅葺屋根の民家を探すのは容易ではありませんでした。そもそも、全国各地に茅葺屋根の民家が残っていることさえも、無情報でわかっていませんでした。野田村に行ったきっかけは覚えていませんが、役場などに問い合わせ、東北地方にはまだありそうだとのことで、撮影に行ったのだと思います。幸いにも、当時、東北地方には、多くはありませんでしたが茅葺民家が残っていて、あてずっぽうで行ってもそれなりに出会えることができました。南部曲屋(茅葺き屋根)と馬とがセットで撮影できる日形井も聞き込みをしてたどり着いたのだと思います。しかし、今まで、そのセットはわずか3軒しか出会えていません。冒頭の写真、その時は全く気付いていませんでしたが、ひとりと1頭1匹 南部曲家でかつて確かにあった素朴な営みは大変貴重なその時限りの記録となりました。この撮影旅行では、友人の運転する車がアイスバーンになった坂道でブレーキが利かず、草むらに突っ込むアクシデントもありましたが、その恐怖体験も今となっては思い出です。郵便でのみ宿泊の予約ができる民宿&カフェ「苫屋」は2001年秋に再訪した際、飛び込みで宿泊することができました。囲炉裏を囲んで、たまたま同宿になった方々と夕食の田舎料理をつつきながら話に花が咲きました。
(参考文献)
ウィキペディア
野田村ホームページ


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