木蠟と和紙の生産で栄えた土蔵造の重厚な商家が建ち並ぶ伊予内子(その1)「八日市・護国の町並み」と大正時代の芝居小屋「内子座」を巡る

はじめに

内子(うちこ)町は、愛媛県のほぼ中央部に位置し、面積の約8割を山林が占める典型的な中山間地域です。町の中央を肱(ひじ)川の支流である小田(おだ)川が東西に流れ、2005(平成17)年には小田川流域の小田町、内子町、五十崎(いかざき)町が合併し現在の内子町となりました。内子(内之子)の地名は1340(暦応3)年 の「清谷寺(せいこくじ)旦那譲状」にある「内之子忠太夫」に因むといわれています。江戸時代後期から大正時代にかけて和紙や木蠟(もくろう)の生産によって栄えました。現在は栗や 柿、梨、ブドウなどの果樹栽培が盛んです。また、八日市・護国の町並み等の歴史的資源や豊かな自然環境を活かしたまちづくりが進められ、毎年100万人を超える多くの観光客が訪れています。

歴史的に、旧内子町域は律令制開始後、宇和郡に所属していましたが、866(貞観8)年には宇和郡が分割され(北)喜多郡となりました。平安時代末期には、この地域でも源平の争乱の影響があったようです。鎌倉時代は幕府初期の有力御家人であった梶原景時や宇都宮氏の所領となっています。戦国時代は在地の小領主が割拠していたものの豊臣秀吉の四国攻めの際にすべて降伏しました。1585(天正13)年、豊臣秀吉から小早川隆景に伊予35万石を与えられました。その後、旧内子町域は戸田勝隆、藤堂高虎、と目まぐるしく領主が変わりました。1608(慶長13)年、脇坂安治が5万3千石を与えられて大洲城に入り、旧内子町域を含む大洲藩が成立しました。1617(元和3)年、脇坂氏の転封に伴って加藤貞泰が6万石で入部し、以降明治まで約250年間加藤家の支配が続きました。江戸期を通じて、内之子(大洲藩)は農村における商工業集落である在郷町(在町)でした。特に内之子は日常的に生活用品や農具などの販売が盛んに行われたことから、明治以降、商店街へと発展しました。江戸時代、内之子ではさまざまな産物が生産されましたが、主なものには和紙と木蠟があります。和紙は越前出身の宗昌禅定門(しゅうしょうぜんじょうもん)が五十崎・平岡地区に伝えた和紙が一般に広まったといいます。良質の和紙は大洲半紙として好評を博したので、藩は宝暦年間(1751~ 1763)に専売制を取り入れ私的な取引を禁止しました。1760(宝暦10)年、藩は領内に紙役所3カ所・楮梶(こうぞかじ)役所2カ所を設けましたが、そのうち紙役所が内之子に置かれることとなりました。和紙の一大生産地となったことで、藩の財政に大きく貢献したといわれています。明治になり、藩政時代の和紙の専売は廃止されたものの、安価な西洋紙の普及で和紙生産は次第に衰退していきました。

木蠟生産は、1738(元文3)年、五十崎の綿屋善六によって始められ、原料の櫨(はぜ)の木も九州から持ってこられたといわれています。内之子では同じ頃、芳我源六が木蠟生産を開始して大坂に移出するなど、江戸中期には商品として取引が行われていました。木蠟は和紙と並び藩の主要産業となりました。木蝋生産は、農家の副業で生産可能な和紙と違って設備や資本を要する木蠟は、藩による専売は行われませんでした。天保年間(1831~1845)以降から江戸時代末期にかけて、芳我弥三右衛門は 製蠟工程の改良を行い産業として発展していきました。明治になり旧藩時代の諸制限が廃止され、木蠟生産は更に発展を遂げました。やがて芳我家を中心とする製蠟業者は、櫨の実を搾って取る生蠟を天日に晒す白蠟生産に着目し、生蠟は他から仕入れ、晒す作業に集約した経営に転換していきました。明治20年代後半(1892~1896)に内子の白蠟は愛媛県の約半分、全国の約3割を占める一大生産地になって輸出量も全国の約13%を占めるまでになりました。しかし、その繁栄は長く続かず、安価なパラフィン蠟や 電灯の普及の影響を受け、1921(大正10)年頃までにあいついで廃業に追い込まれました。

その後、目立った産業は育たず、高度経済成長時代以降、若年人口の流出が顕著となり過疎化が進みました。そのような中、1977(昭和52)年、江戸時代後期から大正時代にかけて町がもっとも栄えた時期の面影を色濃く残していた八日市・護国の町並みの本格的な調査が行われ、約600mの通りにある土蔵造の伝統的な町家や豪商達の贅を尽くした屋敷等の建物群が高い評価を受けました。内子町では保存条例や補助制度を整備するなど保存対策を進め、徐々に町並み保存の機運が醸成する中で、1982(昭和57)年、四国で初めて重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

八日市・護国の街並み
八日市・護国の街並み

内子の商家は一般的に平入で、ミセとして使用する道路に面した1階正面部分を脱着可能な千本格子とし、それ以外が土蔵造となっています。土蔵造の部分には白壁にまじって地元の土を使用した浅黄色の土壁が目につきます。腰壁部分のなまこ壁の幾何学模様と相まって、南国の軽やかで明るい印象をあたえます。

本芳我家住宅

本芳我家は製蠟業国内最大規模といわれ栄えた芳我一族の本家です。町並保存地区内中心部にあり、広大な敷地を有しています。敷地内には1889(明治22)年建築の主屋のほか、炊事場、産部屋、便所、湯殿、土蔵が建ち並び、町並みの中でも際立った存在です。1990(平成2)年、重要文化財に指定されました。屋根の大棟や隅棟の端部を飾る鬼瓦も大型で手の込んだものが使用され、随所に施された亀や鶴など縁起ものの鏝絵が、建物をより一層豪華に引き立ててくれます。内子が大いに栄えた時代、繁栄ぶりを誇示しようとしたのかもしれません。残念ながら建物内部は公開されていません。

八日市・護国の街並み
古民家のゲストハウス「内子晴れ」

町並保存地区内にあるゲストハウスで1泊しました。1階はゲストたちが思いおもい交流する広いスペースになっています。四国八十八か所をめぐっているという若いオーストリア人女性と片言の英語で話が弾みました。それ以外にも多くの外国人バックパッカーが宿泊していました。

金光教内子教会
旧旭館

1926(大正15)年開館の旭館は、当時の有力者ら11人が発起人となって建設されました。木造一部2階建(延415㎡)で表から見える3階と尖塔部分は壁のみの看板建築です。内部には舞台や楽屋、文楽用の太夫座もあったそうです。当初の畳敷きから板張りとなり、昭和に入って「電気館」と改称され、約700人を収容したといいます。1967(昭和42)年に閉館後、老朽化のため解体されようとしていましたが、保存活動により建物は存続し、現在は映画の上映などが不定期で行われているとのことです。

旧下芳我家住宅
伊予銀行内子支店
左;内子ビジターセンター(旧内子警察署 1936(昭和11)年建築)
右;内子町児童館(旧化育小学校 1879(明治12)年建築)
八日市・護国の街並み
内子座
内子座全景

構  造 木造、瓦葺
建築面積 – 799㎡(1階584㎡、2階215㎡)
収容人員 – 650名
主要設備 – 枡席、廻り舞台、奈落、すっぽん

内子座は大正5年、地元の旦那衆18名が発起人となり建築された木造の芝居小屋です。現在は、歌舞伎や文楽などの伝統芸能だけでなく、住民の芸能発表会などにも使われ、内子町民から愛され、町のシンボルとして誇れる存在となっています。開場以来、歌舞伎や文楽、活動写真など、さまざまな興行に使われてきましたが、戦後1950(昭和25)年、1階の桝席を撤去して椅子席変更し、更に1967(昭和42)年には映画・演劇を行えるホールや商工会の事務所として使用するため1階桟敷及び2階桟敷が撤去されました。その後、老朽化に伴い解体するという案が浮上。駐車場にという声もありましたが、折しも町並み保存運動が軌道に乗り始めた頃。内子座を残したいという有志の努力で、昭和57年に建物が町へ寄贈され、本格調査を実施。同年9月には町指定文化財となり、昭和58年から3年かけて修理・復元されました。平成27年には重要文化財に指定されています。

1階升席・桟敷席
2階桟敷席より
折上げ格天井

1階は桝席・桟敷席で、2階は桟敷が階段状に設置されています。天井は折上げ格天井でその格式を誇っています。2階席の高欄にそって行燈が等間隔で配置され、その暖かい灯りが場内の雰囲気を盛り上げています。

さいごに
八日市・護国の街並み

松山道で内子を通過するたびにいつか行きたいとおもっていましたが、ようやく訪問することができました。地方の小さな街との想像でしたが、木蝋と和紙の生産で栄えた街並みは、土蔵造の重厚な商家が建ち並び、長年にわたって集積した富を惜しげもなく費やしたことがみて取れました。点在する浅黄色の土壁の建物は、重厚ながらも、なまこ壁の幾何学模様と相まって、南国ということもあるのかもしれませんが、軽やかな印象が心地よく感じられました。そして内子は四国八十八箇所の遍路道ぞいに位置し、様々な人が行き交う宿場でもあります。宿泊したゲストハウスには様々な世代や世界各地から来た人々が宿泊し、交流が楽しめます。夜遅く、映画館だった旧旭館へゲストハウスの方に案内いただき、フイルムではなくプロジェクターでの映像でしたがみせてもらい、昭和の映画館の雰囲気を感じられる機会にも恵まれました。

(参考文献)
ウイキペディア
内子町ホームページ
ゲストハウス内子晴れ | Guest house Uchikobare – 愛媛県内子町の古民家ゲストハウス
「内子座」の検索結果 – Yahoo!検索

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