北前船で栄え、京の都へ向かう鯖街道の起点となった町、若狭小浜。旧市街と「西組 三丁町」を巡る

西組・三丁町の街並み

はじめに

小浜(おばま)市は、福井県南西部の若狭(嶺南)にあります。同じ福井県でも北部越前(嶺北)とは文化圏や言葉(関西弁)が異なり、京都や畿内の影響を大きく受けています。かつては、北前船の寄港地として、鯖街道の起点として栄えました。海の幸に恵まれた若狭一帯は、奈良時代以前から、天皇(大王)家の食を彩った「御贄(みにえ)」を送る「御食国(みけつくに)」とされ、若狭国の国府も置かれました。奈良時代以降東大寺の荘園があったこの地では「お水送り」という神宮寺の神事が毎年3月2日に行われ、小浜市鵜の瀬より送られる「御香水」は約10日かけて奈良・東大寺二月堂の若狭井に湧き出すと伝わり、二月堂では12日の夜、「お水取り」の名で親しまれる修二会でその御香水が本尊に供えられます。

古代より、海を隔てた大陸や朝鮮半島、又、日本各地から文化や品物、人々が行きかう海の玄関口でした。1408(応永15)年には、インドネシアスマトラ島を支配していた中国系の亜列進卿から室町幕府3代将軍足利義満への贈り物として象やダチョウなど、当時珍しい動物を積んだ南蛮船が小浜に入港したとの記録があります。象はその時が日本初上陸になるそうです。江戸時代になると、北前船による日本海(西廻り)航路の発展により、日本海の「海の道」と都とつながる「陸の道」が交差する小浜は、京都、大坂への物資輸送の要衝として繁栄し、有力な廻船問屋等商人が数多く現れました。

「陸の道」である「鯖街道」は、特に多く運ばれた魚がサバであったことに因んで名づけられました。「京は遠ても十八里」といわれ、小浜から京都市上京区出町(京の都に出る町という意味)に至る約80kmの街道です。小浜と京都を結ぶ経路は複数あり、それらはすべて鯖街道と呼ばれていました。最もよく利用されたのが比較的平坦な道であった熊川宿、朽木谷、大原を通るルートです。戦国時代から江戸時代にかけ、サバなどの魚介類は人足が背負って運搬しましたが、輸送するのに丸1日を要しました。腐敗を避けるためにした塩が京都に着く頃にはちょうど良い塩梅になりました。小浜から都に新鮮な海産物が送られ、都からは最新の文化が小浜に伝わりました。

小浜のある若狭国は、鎌倉時代、執権北条氏自らが守護職をつとめていましたが、室町時代は、都に近かったことから、斯波氏、一色氏、武田氏など、足利将軍家の親せきや室町幕府の実力者が守護職に任ぜられました。織田信長による若狭平定後の織豊政権下では、目まぐるしく城主は変わりましたが、関ヶ原の戦の後、1601(慶長6)年、東軍で戦功のあった京極高次が領し、小浜城を築城しました。又、武家地、商人地、漁師地区に分けた町割が行われ、幕末まで大きく変更されることはありませんでした。1636(寛永13)年には、譜代の有力大名で大老も務めた酒井忠勝が武蔵川越藩から小浜藩に転封され、以降、明治まで酒井家が代々藩主をつとめました。

明治時代以降も町の繁栄はしばらく続きましたが、鉄道網の発達により、交通の要衝として小浜の役割は終わり、街の賑わいも徐々に失われていきました。 江戸時代初期、酒井氏入城後、町人地が拡大し、東、中、西の3組に区分されましたが、平成20年、そのうち、西組の町並みが、近隣の商家町や寺町を含め「小浜市小浜西組」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいます。

旧市街の町家

森下家住宅は小浜今宮地区の魚問屋街に位置し、当家も江戸時代から魚問屋を営んでいたといわれています。建物は明治時代後期に建築され、その後も増築されています。紅殻塗が鮮やかな桁行7間半2階建の大型町家で近代当地域を代表する建物です。

小浜に残る町家は平入で、2階部分が道路側に張り出し1階の軒が深く、うだつが建物両端に付いた出桁造が多く見受けられます。冬場の積雪や防火に適している建物構造は、東国から影響が感じられ、意匠的には越前との共通点がうかがえます。北前船、北陸道を通じた交流や明治期に若狭、越前が福井県として成立し一体化が進んだことがその要因として考えられます。一方で、京町家を思わせる建物も数多くあり、京都との文化的な強いつながりも感じられます。

小浜市鹿島
西組・三丁町
夜の街並み

三丁町(さんちょうまち)は、旧柳町・猟師町・寺町を含む地域の通称で、三つの町が名称の由来であるとされています。又、柳町を中心に北側の猟師町、西側の旧青井町(寺町)、東南の旧清水町の一部で、東西2筋の道路に面したエリア。町筋の長さが3丁程度であることともいわれています。

三丁町の東側入口付近の町家
鯖寿司のお店

三丁町は福井県内に残る数少ない花街でしたが、現在では営業しているお茶屋や料亭はほとんどありません。重要伝統的建造物群保存地区に選定された西組のなかでも、古い建物が多く残り、現代風に改築された建物も修景され、千本格子の家々が軒を連ねる情緒豊かな街並みが復活しました。

江戸時代の寛文年間(1661年~1673年)には茶屋町として成立し、その頃小浜の夫代銀の半分を納めるほど繁栄していたそうです。昭和初期までは若狭を代表する歓楽街で、最盛期にはお茶屋が48軒ありました。現在は、四季彩館 酔月、蓬嶋楼(ほうおうろう)でその名残をみることができます。

「お茶屋」には蔵がなく、畿内の町家にある「トオリニワ」もありません。建物2階前面に縁や出窓を出す構造が特徴となっています。ただ、京町家に似た造りの建物も多いことから、全てがそうであるわけではないようです。

四季彩館 酔月
外観(夜/昼)

「四季彩館 酔月」は、もともと明治初期に建てられた料亭「酔月」です。数寄屋建築の意匠も取り入れ、細部に至るまでこだわった仕事がなされており、明治から昭和の時代に、三丁町の中心的な役割を担った料亭に相応しいしつらえとなっています。現在は、小浜の海の幸、山の幸が楽しめる食事処となっています。

旧蓬嶋楼(おうほうろう)
座敷(客間)
2階座敷

明治初年に建築された旧蓬嶋楼(おうほうろう)は、元々谷民(たんたみ)という店の名前でした。「酔月」と同様に明治から昭和の時代に、三丁町で中心的な役割を担い、且つ最大の料亭でした。町家風の建て方が多い周囲とは異なり、京都で大正から昭和に流行した高塀造りのように(外観は異なる)、主家は通りに面さず、通り側は木塀が続き、玄関、出窓がアクセントとなっています。室内は、実際に料亭を営業していた当時の内装や調度品が残り、往時の雰囲気を感じることができます。特に、各部屋の床(床脇)は、円をモチーフにした意匠がユニークで見応えがあります。

1階の座敷の外の廊下から、小さな池のある庭が眺められます。廊下の掃出し戸は、古いゆらぎガラスがそのまま使われています。池の奥には、港町ならではの海の神様、金毘羅さんがお祀りされています。

さいごに

江戸時代、山がちな小浜藩の石高は10万石程度しかありませんでした。大学時代バイクツーリングで、京都から周山街道を通って小浜へはよく行きましたが、裏日本のごくありふれた一地方都市の印象でした。しかし実際は、北前船の寄港地、鯖街道の起点として交通の要衝であった小浜の町は商業により大いに栄え、石高以上に豊かな藩でした。三河以来の譜代の家臣酒井家にこの要地を任せたのもうなずけます。市内には紹介した三丁町の江戸末期から昭和初期に建てられた建物群をはじめ町家が今も数多く残っており、昔の栄華を偲ばせます。小浜はなんといっても、鯖、グジ(甘鯛)、フグ、鯛に代表される海産物がおいしい街です。町並みを散策した後は、是非味わいたいものです。個人的には京都の味にも負けない鯖鮨とへしこがお勧めです。2024(令和6)年、北陸新幹線が敦賀まで延伸されと関東からのアクセスもよくなりました。北陸新幹線が延伸され、京都までつながるのはまだまだ先ですが、小浜を経由するようです。その時にこの街はどうなっているのか楽しみです。

(参考文献)
ウィキペディア
小浜市ホームページ
四季彩館 酔月ホームページ

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