今も昔もデザイン。クリエイティブセンター神戸(旧国立神戸生糸検査所) 神戸新港地区 昭和初期モダンビル群(その2)

新館(旧国立神戸生糸検査所)全景

はじめに

現在の中央区新港地区あたりは、江戸時代まで大阪湾に面した西国街道沿いの半農半漁の村でした。幕末、海防が重要視され、勝海舟の建言で神戸海軍操練所が1864(元治元)年5月に設置されました。海舟は、幕府や諸藩の垣根を越えた日本の「一大共有の海局」を作りあげるという壮大な構想を抱き、操練所には幕臣だけでなく土佐脱藩浪士や長州藩に同情的な意見を持つ生徒が多く受け入れました。このことから、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして、1865(慶応元)年3月には設置後1年を満たずして閉鎖されました。神戸港は1868(慶応3)年に開港され、明治に入ると海外との貿易が一層盛んになり神戸港の貨物取扱量は大幅に増加、明治時代末から大正時代にかけて新港地区の沖合に新港第1~第4突堤が築造されました。この工事完成により国の重要港として近代的港湾としての骨格を整えられ、隣接する西側の旧居留地にあるメリケン波止場にかわって、神戸の貿易の中心を担い発展していきました。その後、1960(昭和40)年代にかけ第8突堤まで整備されました。海運の主流がコンテナ船になった現在、港湾機能はポートアイランドなどに移り、かつての賑わいはなくなりましたが、昭和初期に相次いで建築された建物や大倉庫群が残り、古き良き港町の雰囲気を残しています。

デザインクリエイティブセンター神戸(旧国立神戸生糸検査所)旧館・新館
旧館(旧神戸市立生糸検査所)全景

設計   旧館:神戸市営繕課(清水 栄二)
     新館:置塩建築事務所(置塩 章)
施工   旧館:竹中組(竹中工務店)
     新館:錢高組
建築概要 旧館:RC造、地上4階、地下1階 建築面積2,369㎡、延床面積5,917㎡
     新館:SRC造、地上4階、地下1階、塔屋1階、延床面積10,290㎡
竣工   旧館:1927(昭和2)年
     新館:1932(昭和7)年

明治政府は生糸を最重要輸出産物と位置づけ、横浜と神戸に生糸検査所を設置しましたが、関西生糸市場の不振から、農商務省神戸生糸検査所は1901(明治34)年に閉鎖されました。しかし、大正期に入ると関西生糸市場は盛り返し、神戸での生糸取引および輸出業務に対する期待が高まり「神戸市立生糸試験所」が開設されました。

1926(大正15)年、輸出生糸検査法が公布、生糸の製品検査体制が強化され、これに対応した施設拡充が課題となり、1927(昭和2)年、現在地に「神戸市立生糸検査所」として庁舎(現在の旧館)が新築されました。

一層の生糸貿易振興のため、神戸市は市立生糸検査所の国への移管を求めていたところ、1931(昭和6)年、神戸・横浜の両検査所は国に移管されることとなり、国立神戸生糸検査所が設置されました。

1932(昭和7)年には、生糸の品位格付検査が強制実施されることとなり、検査機器整備と庁舎増築の必要がありました。しかし、国は緊縮財政政策により検査所の拡張資金を調達できなかったことから、神戸市が増築拡張を行い、国がその設備を借受け、借料を払うこととし、1932(昭和7)年、国立神戸生糸検査所(現在の新館)が建築(増築)されました。

戦後、進駐軍の接収を経て、1980(昭和55)年までは検査所として存続しましたが、戦後、合成繊維の登場したことで、生糸の取引はなくなり、2008年度末まで農林水産消費技術センターの施設として使用されていました。同センター移転、跡地の競売が発表され先行きが危惧されましたが、保存運動の結果、建物は神戸市が買収し、2012年8月から、「デザイン・クリエイティブセンター神戸」(愛称:KIITO/キイト)として生まれ変わり、デザインを人々の生活に採り入れ、より豊かに生きること目指して、デザインやアートにまつわるイベントなどを開催するほか、レンタルスペース、オフィススペース等があり、「デザイン都市・神戸」の拠点施設として使用されています。

旧館(旧神戸市立生糸検査所)
玄関
玄関装飾(テラコッタ)

建物前面壁にある9つの柱の間に、壁面とほぼ同面(どうずら)で連続した窓がタイル貼りの腰壁の上に設けられ、非常に軽快なイメージを受けます。又、壁面に太さの異なる2種のマリオン(方立て)が規則的に設置され、垂直線を強調したチューダー・ゴシック様式でまとめられています。昭和初期の建築ながら、全く古さを感じさせません。

玄関の両脇には建物を1階から最上階まで貫く八角柱の尖頭アーチを設け、テラコッタ装飾を組み合わせることで、アクセントとしています。このテラコッタ(焼き物)装飾は、生糸を吐き出す蚕の頭部を模しているといわれています。

設計を担当した神戸市営繕課(清水栄二)の先進性が際立つ作品ですが、同課は1923(大正12)年に独立設置され、神戸市の急速な発展にともない人口が急増、公共施設の新築や鉄筋コンクリート造による建て替えが進められ経験が蓄積された結果であると考えられます。神戸市内にはその当時建築され、神戸大空襲、阪神淡路大震災を乗り越えた建物を少なくなりましたが今も見ることができます。

神戸税関(旧館)と建築中の神戸市立生糸検査所(旧館)
玄関
玄関手摺柱
エレベーターホール
クリエイティブ・スタジオ

建物内はレンタルスペース、オフィススペースとして使用されています。現代のニーズに合わせ設備等は改修されていますが、共用部階段の印象的な曲線とトーチ?をモチーフにした手摺柱、各部屋のドアや腰壁も木製のまま残っています。又、エレベーター自体は新しいものに変わっていますが、階数表示盤は昔のままで、ほっこりさせてくれたりと(笑)、過去と現代のデザインが見事に調和しています。

2/3階階段室
クリエイティブ・スタジオ
新館(旧国立生糸検査所)
塔屋(南東角)

軽快なイメージの旧館にくらべ、新館は建築年代が5年下るにもかかわらず重厚な佇まいで、各建物の竣工年を知ったときはびっくりしました。外壁は隣接する神戸税関、新港貿易会館と同様、ダークブラウン色のスクラッチタイル貼りで、1階各扉上部のまぐさや、塔屋のマリオンに白色系の石材(現状は白色塗装)を用いることでアクセントとしています。又、一部の窓はアール・デコ調の円形で、建築された当時の流行の一端を知ることができます。設計者は大正から昭和初期に関西で活躍した建築家で旧大阪砲兵工廠化学分析場、兵庫県会議事堂、宮崎県庁など公共建築物を多く手掛けた置塩 章(おしお あきら)です。本建物は兵庫県庁を退職し、独立後に設計され、ネオ・ゴシック様式を好んだ彼らしい作品です。建屋は神戸港貨物線の引き込み線(現在は駐車場)に面し、1階には総荷取扱場が設けられました。職員の半数以上が女性で、コルク貼りの上に畳を敷いた休憩室や、花壇や遊歩道にベンチを配した屋上庭園もあって、当時としては最先端の職場環境をもつ事業所でした。

南面
北口玄関

過度な装飾を排し、優美な曲線と幾何学模様を多用したモダンな意匠はこの時代の特徴です。北口玄関の落ち着いた茶色と緑色系のモザイクタイルを混ぜて敷きつめた床は、気持ちがなんとも落ち着きます。京都で焼かれた泰山タイルでしょうか?

ホール(旧総荷取扱場)
建築当初の総荷取扱場(神戸市ホームページより)

南側を旧館と新館でコの字に囲まれた総荷取扱場は、半分に間仕切られ(シャッター部分)、現在ホールとしてイベント等に使用されています。照明や空調機器が取り付けられていますが、屋根を支える天井トラスの鉄骨は竣工時のまま健在です。

鏡・洋服掛け

どこかの部屋に置いてあったものでしょうか。なんども優美です。外出しようと、コートを羽織った紳士が、中折帽をかぶって、蝶ネクタイの曲がりを鏡で確認する様子が思い浮かびます。

さいごに

神戸港は自宅のある堺からは1時間ちょっと。小学生の頃、よく父に連れられて訪れました。父は港や船の絵を描くのが好きで、絵の題材につかう写真撮影が目的でした。あれから長い月日がたち、その頃の父の年齢を超えてしまっていますが、ポートタワーで買ってもらったヤシの実をくりぬいたお猿さんが今も私の家の片隅にあります。その時と変わらず、新港地区には昭和初期に建築されたレトロビル群が残っています。もちろん、子供のときは全く意識していませんでしたが(笑)。神戸の近代化を象徴するこれらの建物は当時、海外からの玄関口たる神戸港の施設として、威厳を与えようとする意図があったと考えられます。以来、神戸大空襲、阪神淡路大震災、建物存続の危機を乗り越え約100年が経過しました。今、新港地区のヒストリック・ディストリクト(歴史的価値の高い環境)として神戸らしさを感じさせてくれます。

参考文献

ウイキペディア
神戸市(KOBE city of design)ホームページ
「デザイン・クリエイティブセンター神戸」ホームページ
本建物に係る日本建築学会見解

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